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「ごきげんよう」が言いたくて――『Go!プリンセスプリキュア』50話

「夢は叶えばいいってものじゃないよ? だって夢はなりたい自分になることだから。だから、自分の力で頑張らなきゃ」                    『映画プリキュアオールスターズ New Stage 3 永遠のともだち』

 

 「プリキュアらしさ」というのは、僕がちょくちょくプリキュアについて色々書いているときに一番解き明かしたいことなのだが、『Go!プリ』の50話を観てもらえれば、長々とした解説はいらないのかもしれない。プリキュアがプリキュアであること。それがこんなにうれしいことだとは自分でも思っていなかった。

 

 プリキュアは、最終回よりもその1話前あたりが素晴らしいことが多く、最終回というと、『ふたりはプリキュア』49話、『Yes!プリキュア5』49話(こちらもどちらかといえば48話が傑作)、そして『スイートプリキュア♪』48話あたりが印象深い。しかし、『Go!プリ』はその最終回でもって、頂点を迎えた珍しいタイプの作品だった。

 

 正直、49話を観たときは結構あっさりディスピア戦が終わるものだとがっかりした。ラスボスが1話前に倒される展開は『スイート』でもあったので、それほど驚いたわけではない。しかし比較的ストレートに悪の権化だったディスピアに、ノイズのような最終回をバトルに使わずに費やすような葛藤があるとは思えず、あれほど強大な印象を残していたラスボスが最終話を待たずに消滅したという物足りない思いばかりが募った。残る最終話は以前から言われていたはるかたちそれぞれの旅立ちを描きつつ、無難にまとめるのだろうなと予想しつつ、TVをつけていた。しかし、その予想は大きく裏切られた。この衝撃を頭のなかでまとめるのに時間がかかったが、50話のパワーはひとえにクローズの存在にあるように思う。

 

 まず単純な次元では、ディスピアの力を受け継いでのクローズのラスボス化は、不完全燃焼のまま終わったラスボス戦を仕切り直してくれた。50話の魅力はやはり後述のテーマ性なのだが、それでもそこに至る戦闘シーンも手を抜かずにやりきってくれたのは嬉しかった。気合の入った作画で展開されるフローラVSクローズ戦は、最終回に相応しい手に汗握るもので、49話の不満は吹っ飛んでいた。できれば全員で戦ってほしい気もしたが、フローラとクローズの対話のなかで生まれてくるテーマを考えると一対一でないとダメだったのだろう。

 

 二つ目に、最終的なクローズとの和解によって「悪を否定せず受け入れる」というプリキュアの正義の在り方が再び示されたことを指摘せねばならない。つまり、「善VS悪」という図式は、善の側から見た暴力的なものであり、善から排除されてしまった本来は表裏一体の悪をきちんと見据え、共に歩んでゆくことで本当のハッピーエンドになる、というものだ。『ドキドキ』、『ハピネスチャージ』の過去二作品は、わりと胡散臭い正義を掲げていて、今回のような主張はもうできないのかと思われたが、無事に回帰した。この発想自体は『スイートプリキュア♪』が打ち出し、『劇場版スマイルプリキュア!』がより明確化した結論なので、目新しさ自体はないのだが、その結論を出したときの相手がクローズであったことが重要なのだ。

 

 クローズは序盤に一度プリキュアによって消滅させられている。その時の悔やむようなフローラの表情が非常に印象的だったが、ともあれプリキュアも一度は悪を悪として消滅させる道を選んでいる。その後クローズはより強大となって復活し、フローラたちプリキュアもグランプリンセスにまで至った。そして最終回でもう一度フローラはクローズと対峙し、彼を否定せず受け入れる道に気づき、夢の本当の姿を見出す。その意味を大きく変えた「ごきげんよう」という言葉のなかに、『GO!プリ』はシリーズ作の変遷によって示していた正義観の成長を凝縮して提示した。さらに言えば、かつての作品では「音楽」(スイート)や「物語」(スマイル)をモチーフに説明されていた表裏一体の善と悪を、『Go!プリ』は、プリキュア最大のテーマでもある「夢」をモチーフにして、夢に向かう姿勢とそれに伴う試練という形で描いてみせた。同じく夢をテーマとした直近の作品は『プリキュアオールスターズNS3』だが、この映画が打ち出していたテーマは『Go!プリ』のなかで『スイート』以来のテーマと合流を果たした。50話は、短い時間のなかでプリキュアが辿った主題を反復し、さらにそれを総括するものになっている。

 

 最後に、50話の最大の成果だと感じているのが、クローズとの戦闘を通して、プリキュアの戦いを、誰もに普遍的な次元のものにすることができたところである。『ハートキャッチ』で初めて過去のプリキュアが具体的な姿と設定で登場して以来、プリキュアには歴史が生まれてしまった。それはプリキュアの「戦士」としての側面を強調するものであり、彼女らがどこにでもいる中学生であるという「普通の少女」としての側面を希薄なものにしてしまう。伝説の戦士になれるのだから、その少女たちも際立った何かを持つに違いない。そうした発想が『ドキドキ』や『ハピネスチャージ』の随所に見られ、結果少々現実離れしたヒロインたちが多く登場することにもなった。比較的初期プリキュアに雰囲気が近かった『Go!プリ』ならばその流れと無縁でいられるかと思ったが、途中で先代プリキュアが登場したので、やはりこうしたプリキュアの「歴史化」は止められないかとも考えた。しかし、50話は綿々と続くプリキュアの戦いを、誰もがもがきながら進む夢への取り組みとイコールでつなぐことで、その選民性の縛りから解き放ってくれた。終盤のホープキングダムの様子は、ディスダーク復活を思わせるが、そこではこの後も続いていくプリキュアの歴史が示されながら、そこに夢に向かった頑張る普通の少女の姿が確かに併存している。プリキュアたちの戦いは夢を見る者ならば誰にでも起こる戦いであり、彼女たちはその夢を守るためにこそ戦うどこにでもいる普通の少女である。そうした所謂プリキュアらしさを『Go!プリ』は遂に取り戻した。

 

 「これはプリキュアを変えるプリキュアになってくれるんじゃないか。なんとなくそう思った」。『Go!プリ』1話を観たときの記事でそんなことを書いていた(『Go!プリンセスプリキュア』1話)。今回ばかりはこの時の自分を褒めてもいいのかなと思わないでもない。それほどまでに最終回において『Go!プリ』は今のプリキュアを変えてくれた。しかし、こう書くと『Go!プリ』は近年稀に見る異色作であり、その独創性によってプリキュアを塗り替えた作品だと思われるかもしれない。そうではない。今まで長々と書いてきたように、『Go!プリ』は過去のプリキュアが辿ってきた道を踏まえ、それをいかにして発展的に乗り越えるかという問題を真剣に考えた、どこまでもプリキュアであることに愚直な作品だった。そしてその愚直さゆえにプリキュアを変えたのだ。

 

 そのことに我々が気付いたとき、『Go!プリ』が終わっているというのはなんとも悲しい。だが、悲しんでばかりいられないほど、『Go!プリ』の去り際は綺麗だった。女児アニメなら選んでもおかしくない甘くて優しい展開を選ばず、避けようのない別離から目をそらさなかった。プリキュアとしてともに過ごした面々はバラバラになり、それぞれの道に進んでいく。そこに生ぬるい馴れ合いはなく、「気持ちがつながっていれば、離れていても心は一緒」というシリーズで何度も繰り返されたテーマを堂々と実践している。しかし春野はるかたちはそんな理想に苦も無く邁進できるほど、気丈でたくましいわけでは決してない。50話は、はるかたちの等身大の弱さを掬い取るやさしさにも満ちている。こらえきれず涙を流し、それでも顔をあげ笑顔で走っていくはるかたちの姿は心を打つ。そのときはるかたちはもうプリキュアではなく、一人の少女として未来に立ち向かっていく。

 

 ならば言うべき言葉は一つだ。それはもう拒絶と訣別を表すものではないのだから。輝かしき『GO!プリンセスプリキュア』に、愛をこめて――「ごきげんよう」と。