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抗いがたき物語化ーー『屍者の帝国』

 恐らく文字という媒体は、複雑な内容や煩雑な流れを提示する上で最も有効なものの一つである。視覚的に訴えるものこそ少ないものの、立ち止まり巻き戻ることができるという利点は大きい。そのため文字媒体の作品が、たとえば映像という引っ切り無しに情報が押し寄せ、尚且つ止まることもできない媒体に変換されるとき、その中身は常に「単純化」に晒される。勿論ジャンル間の差異を考えれば、視聴を可能とするため情報量を落とすというのは当然の判断であり、一字一句を正確に移し替えることを望むのはナンセンスというものだ。しかしそれでも単純化によって、その作品の核となるものが致命的に損なわれてしまうという危険も常にある、ということは覚えておかねばならない。『屍者の帝国』もまた、映像化というプロセスで取りこぼしたものが随分多い作品である。

 

 劇場アニメ化に際して、『屍者の帝国』が行った最大の変更点はワトソンとフライデーの関係という軸が導入されたことだろう。原作においてラストを除いて筆記役に終始し、本筋に絡むことのなかったフライデーは、映画ではワトソンの友人となり彼によって屍者として甦っている。これに伴いワトソンも一介の医学生という設定から、親友の死体を暴き屍者として甦らせた狂人と呼ばれ、また本人も魂に強い執着を抱く人物となっている。

 

 『虐殺器官』や『ハーモニー』と違い、『屍者の帝国』は一つの大きなテーマといったものを定めにくいように思う。「魂とは」という問いから始まり、「技術の在り方」や倫理観等が、冒険小説的展開・錯綜する理論・数多くの他作品への言及などと絡まり合い、複雑怪奇な様相を呈している。言ってみれば、それがこの作品の「読み味」なのだ。しかしワトソンとフライデーという軸は、本作を死んだ親友の面影を追いかけるという少々陳腐なストーリーに統一してしまっている。アリョーシャや日本の場面は、独立したエピソードとしての性格を失くし、二人の関係を浮き彫りにするサブストーリーへとスケールダウンしていえる。こうした影響は、キャラクターを見るとさらに明らかだ。例えばいかなる考えにも与せず純粋な力の行使のみを行っていたバーナビーは、魂の在り処に固執するワトソンとの対比のためありきたりなヒューマニストのように描かれることとなった。それが悪いとまでは言わないが、彼のどこか超然としたところが失われたことは事実だ。インタビューでも言われていたが、確かに本作をそのまま映像にすると膨大な量になる。それ故の調整ということだろうが、それで話の方向性自体が変わってしまうのは果たして良いものなのか、僕としてはなんとも言えないところだ。

 

 尺の問題もあるため言っても詮無いことなのだが、元々あった「つぎはぎ感」が失われたことも残念である。『屍者の帝国』のなかでは、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』だけでなく、ドストエフスキイー『カラマーゾフの兄弟』の幻の第二部に『シャーロック・ホームズ』、『007』など複数のテクストが、さながらフランケンシュタインの怪物のように継ぎはぎされている。しかもこれらは単にモチーフに留まらず、テクストの内容そのものが作品内に大きく食い込み、一種の歴史改変ものとして機能している。本作では人間による「物語化」についても言及されるが、それはつまり複数の「物語」が織り合わされた本作のなかで物語化への言及が為されているということである。そうしたメタフィクション的に「物語」を転覆する効果のようなものが、『屍者の帝国』にはある。

 

 しかしながら、映画では筋をスリムにするため、こうしたいわば「遊び」は大幅にカットされている。幻の第二部とされるものを愚直に踏襲していたアリョーシャの経歴はほぼ言及されず、実質名前を借りた人物という程度でしかない。ウォルシンガム機関のMも明らかにマイクロフト・ホームズではなくなり、ヴァン・ヘルシングは登場すらしない。映画版はほぼ『屍者の帝国』の単一テクストと呼んでよい。その割には、元は示唆されるにとどまった『ホームズ』からはもろにホームズが姿を見せている。スリム化もさることながら、もしかすると制作側としては複数テクストの仕掛けは読者サービスという認識だったのかもしれない。そう考えると、少しもったいないようにも思う。

 

 パンフレットのインタビューを読めば、原作を映像に落とし込む鍵となったワトソンとフライデーのストーリーは、伊藤計劃から円城塔へと受け継がれた物語の象徴として構想されたらしい。伊藤計劃氏の早逝後、特に近年は彼の作品にはなにか必要以上に大きなものが上書きされていくようにも感じる。たしか円城氏も作品を書くうえで、伊藤計劃ならどう書くかということは考えないことにしたとおっしゃっていたはずだ。ならば読者としても必要以上に、そうした背景を作品内に読み込むべきではないだろう。『屍者の帝国』は、きっとそんなツール無しで十分に読むことのできる作品である。物語化はしばしば物事を単純化する。口当たりのよいストーリーによって、事の本質から目を背けることになる。

 

 早すぎた死を迎えた作家とその物語を書き継いだ盟友。そうした安易な物語化にこの映画は屈してしまったのではないだろうか。

 

○補足

 本文に褒める部分を上手く組み込めなかったので、補足という形で補いたい。上で書いたことは勿論本当に思っているが、何も2時間ずっと顰め面で観ていたわけではない。

 繰り返しになるが、この作品は尺や映像という媒体との闘いだったのだろう。改変にもその苦心を斟酌しないのは不公平な気がする。とりわけ、「Project Itoh」と銘打ちながら、伊藤計劃が書いたとされるプロローグを丸々カットしたのは、なんというか大胆と言わざるをえない。中盤から後半にかけて、なんとなく『ギルティクラウン』を思わせる演出がいくつかあった。特にラスト近辺でアポカリプスウイルスみたいなのが出たのには驚いた。気のせいかとも思ったが、パンフで監督と荒木哲郎氏が対談していたので、もしかしたらわざとなのかもしれない。

 またハダリーは紅一点ということもあって、色っぽさが目を惹いた(本作にまるでそぐわない言い方をすればエロかった)。個人的に嬉しかったのは、『007』のマニーペニーが登場しているところだ。映画ならではの演出で胸が躍った。