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「リアリティ」再考ー『響け!ユーフォニアム』補足

 このあいだ書いた『響け!ユーフォニアム』について、多少言葉が足りておらず、また考えがまとまっていなかったように思うので、補足をしたいと思う。


 前回の記事は、『ユーフォニアム』という作品を「リアル」VS「アニメ」という二項対立で捉え、いわゆる写実主義的リアルを称揚したように見えたかもしれない。だが、先に述べたいのだが、それは違う。

 確かに最初(ほんとに最初だが)、『ユーフォニアム』という作品は、リアル志向に見えなくもなかった。だが、少し観てみれば、この作品がアニメ文法をきちんと用いたアニメサイドに留まろうとする作品であることはよくわかる。そういう意図もあって、「リアルよりもリアリティ」というインタビューを引っ張ってみた。ここまでは僕も賛成なのだ。


 僕が用いたリアリティという言葉を改めて定義し直すと、それは「現実で許容され得る範囲」ではなく、「その作品内で許容され得る範囲」というものになる。だから『ユーフォ』を写実主義的作品と捉えているわけではない。


 この意味でとった場合、その範囲はストーリーが進むにつれてある程度は変化する。3話あたりで滝先生との一悶着が比較的あっさり解決したとき、視聴者はこの作品はそこまでドロドロしたことはやらないのだなと思う。そのとき、作品世界が許容する範囲が一つ更新される。しかし、多少の変化はあるとはいえ、『ユーフォニアム』は「部活を中心としたストーリー」としての世界観を構築する。


 そして僕が一番問題にしているのは、この世界観の「不安定さ」である。前回例として挙げたのは、高坂麗奈のキャラクター性だった。要するに、彼女のキャラクターはこの世界観で描くには強烈すぎる。8話での支離滅裂な会話や、「本物」という発想、久美子への矛盾を孕んだ感情といったものを抱えた麗奈は、明らかに他のキャラに比べて詰め込まれているものが多い。加えてそれらは性質上、キャラ描写が吹奏楽関連に限定されがちな他のキャラと違い、麗奈個人に端を発するものであり、吹奏楽部や自身の吹奏楽と直接拘わらないものばかりだ。


 前回例に出した『黒子のバスケ』風に言うと、「高坂麗奈は二人いる」。それは吹奏楽部内での皆に了解されている麗奈と、大前久美子の視点から定義される麗奈だ。別にこの二つが不連続なわけではないが、描写の上では随分違う。前者は『ユーフォ』内リアリティで十分に理解できるものだ。10話において先輩に食って掛かった麗奈は、「情より理を優先」や「プライドが高い人物」といった理解ができる。しかし、8話で一気に前景化する、久美子視点から捉えられた個人としての麗奈は、そこから随分離れたキャラだ。奇怪な言動や行動から見える彼女のキャラは、世界観に比して飛びすぎている印象がある。つまり、『ユーフォ』世界観から考えても、「いなさそう」なキャラなのだ。前回の例をもう一度使えば、黒子テツヤは『黒子のバスケ』のなかなら「いてもおかしくない」キャラクターだ(あの作品を読みながら、こんなキャラいねえと思うなら読むのを止めたほうがいい)。それは、黒子があの世界観の内側にきちんといるからだ。しかし『スラムダンク』の世界に黒子がいたら流石におかしい。あの作品がしている線引きから明らかに外れてしまう(注)。


 そうなると、高坂麗奈を描いていくということは、キャラ個人を深く掘りさげる、キャラ重視の方法論がある程度必要になってくる。それは基本的に吹奏楽部という総体を描く世界観から溢れてしまうものだ。久美子の視点で定義される方の麗奈が前景化するに及んで、一気に二人の麗奈のキャラが、そして『ユーフォ』における二つの方法論の衝突を起こしているのだ。


 さて、こう書くと、両方やるという選択肢はないのか、二項対立、二者択一の図式に落とし込むことがそもそも間違いじゃないのかという気もしてくる。確かに両方することは恐らく不可能ではないだろう。だが、これは前にも書いたのだが、この手の作品で比較的飛んだキャラを描写するにはそれなりに準備がいるし、なにより「落としどころ」というのが重要である。去年放送されていた『ハナヤマタ』という作品も、部活もの、青春ものを基調としていたが、キャラクターの可愛さや穏やかな雰囲気を守るため、リアルっぽさはある程度以上抑えていた。やはりそういう調整は不可欠だ。


 一方、『ユーフォ』という作品はそのどちらも全力でやろうとしている、「欲張り」な作品であるように思う。それはそれで結構なのだが、結果としてそれがこの作品の「不安定さ」に繋がっているように感じられてならない。そしてそれは、スタッフがインタビューで述べているような「作品内リアリティ」を揺るがしているのではないだろうか、だから、余計にどのあたりを「落としどころ」にするのか、その見定めがとても大事なのだ。それが、「リアリティ」の線を引くということではないか、と僕は考えている。


(注)ここで『スラムダンク』を便宜上、リアル系の代名詞みたいに使っているが、別に『スラムダンク』が写実主義的作品だと考えているわけではない。あの漫画にしてもある程度は、現実離れした選手がそろっているわけだし、特に主人公桜木花道の成長速度はお世辞にも現実的とはいえない。だからこれは『黒子』はとんでもバスケで『スラムダンク』はリアルなどという紋切り型の意見を言っているわけではないのだ。あくまでそれぞれの作品がそれぞれの次元で独自の線引きを行って、その作品内で「ありえそう」なことを描いているということだ。その線引きを守っているという点で、この二作品は紛れもない名作であるといえる。