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「百合」と「百合っぽさ」の狭間で――『しずるさんと偏屈な死者たち』――

 最近のアニメは男性キャラが消え始めている。所謂萌え四コマと呼ばれるジャンルに代表される作品群が、女の子同士のゆるゆるとした日常を描くため、ドラマツルギーを排除していくなかで、男性キャラを消していったことにも原因があるのかもしれないが、男一人女多数のハーレムものをさらに突き詰めて、女の子しかいないみたいな作品が増えた。それと同時にやたらにちらつくのが「百合」という概念だ。確かに露骨に百合狙いの作品は存在するからそれについては問題ない。しかし、単に女の子が二人いるだけでも、そこに百合を見出してしまう受容の仕方もある。一個人の受容の仕方としてはそれでいいのかもしれないが、発信側まで含めてそれを推し進めるのはどうなのか、それは作品の持つ雰囲気を損ねてしまうのではないか。それを『しずるさんと偏屈な死者たち』を題材に考えてみる。


 『しずるさんと偏屈な死者たち』は当初富士見ミステリー文庫から刊行された上遠野浩平の「しずるさんシリーズ」の第一作目である。――病気のため病室から動けないしずるさんのもとに、親友のよーちゃんが不可思議な事件を持ち込む。しばしば残酷な様相を呈する謎が複雑に絡み合った事件を、しかししずるさんは快刀乱麻を断つ如く解決してしまう。そんなしずるさんに今日もよーちゃんは感心しきり。二人のおしゃべりは続く……


 ジャンルとしてはミステリに分類されるだろう。しずるさんがベッドにいながら話を聞くだけで事件を解決するあたりは「安楽椅子探偵」ものとして見ることもできる。「しずるさん」は上遠野浩平の作品群のなかでもとりわけ核となる人間関係が小さい。たとえば、『ブギーポップ』であれば、多くの作品では宮下藤花/ブギーポップや竹田啓司、霧間凪に末真和子、フォルテッシモやリセット、「戦地調停士」であればEDとレーゼ、ヒースといった面々が中核を構成する。しかし「しずるさん」では中心となるのは、病室のなかでのしずるさんとよーちゃんの関係のみなのだ。このシリーズが上遠野のなかで比較的地味なのは、偏にここに原因があるだろう。そのため、物語を彩る上でどうしても重要になってくるものがある。「事件の不可思議さ」と「しずるさんとよーちゃんの関係」である。前者は特に問題ないだろう。このシリーズはミステリなのだから、事件自体が魅力的でなければならない。問題は後者だ。


 このシリーズにおけるしずるさんとよーちゃんの関係はなんとも言えない。「親友」といえばそれまでなのだが、それ以上の濃い繋がりを感じさせる。よーちゃんはしずるさんを相当大事に思っており、深い絆を感じているようだが、問題はしずるさんの方だ。彼女はどうもかなりよーちゃんを特別視しているようで、よーちゃんとそれ以外の人間に大きな隔たりがあることが、作中の記述や「ソウルドロップ」シリーズなどの描写からうかがえる。しずるさんにとって人間はよーちゃんか否かみたいなところがあり、わりと歪んだ友情である。ある意味共依存ともいえる奇妙な関係を二人は結んでいのだ。これはとても少女漫画や少女小説的な関係で、思春期の少女ならではの、友人関係を超えた友人といった微妙なバランスのものである。これが「しずるさん」の雰囲気を形作っていることは間違いない。しかし、だ。『しずるさんと偏屈な死者たち』が星海社文庫から復刊したとき(富士ミスの廃刊と共にしばらく絶版だった)、こんな煽りがついた。


「とってもミステリーで、ちょっぴり百合。」


 そう、この煽りによって「しずるさんシリーズ」は百合作品という扱いになってしまった。元からそう思っていた人はなにを今更と思うかもしれない。しかし、ここでの問題はそこではない。この煽りの最大の問題はしずるさんとよーちゃんの関係を公式で「百合」と定義してしまったということだ。これによって、二人の微妙な関係や、細かなやり取りが全て「百合」の一言で片付いてしまうのだ。「しずるさん」は確かに「百合っぽい」。しかし、「百合」と「百合っぽさ」の間には大きな隔たりがあるように思う。


 「百合」という言葉をやたらに乱用する弊害は、女の子同士の微妙な関係を全てその言葉のもとに均一化してしまうことだ。事実、「しずるさん」もそれなりに筆を割かれていた二人の関係の友情の側面は完全に黙殺されることとなってしまった。またとりわけしずるさんに見られる相手への依存という『しずるさんと無言の姫君たち』で表面化する問題は、作品全体に関わるテーマなのだが、「百合」という視点に立つと「ヤンデレ」で片付いてしまう。他の作品でも、たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』における暁美ほむらの鹿目まどかへの思いを「百合」と解釈することは容易い。しかしそれでは、ほむらの魔法少女としての行動、とりわけ『叛逆』での行動に非常に一面的な見方しか提示できなくなる(クレイジーサイコレズとかいうやつだ)。同じように「しずるさん」にも「百合」的側面は色濃く存在する。この作品は「百合」っぽいのだから。しかし、それを最初から「百合」という理解の枠組みとして提示してしまうと、作品内の色々な描写が全て一定の方向性を持ってしまう。「ぽさ」が無くなってしまうのだ。これはできることなら避けるべきだ、と僕は思うのだ。


 実際問題として、星海社文庫版の「しずるさん」からは少女小説的性格が消えている。「百合っぽさ」ではなく、「百合」になってしまたのだ。個人的にはそれが残念だったので、ここでは「しずるさん」を取り上げた。近年、ソフト百合を売りにした作品が多い。そういう流れに押されて、百合以前の、友人関係と百合の間を危ういバランスで狙うような作品を、「百合」の名のもとに一本化する、それは非常に危うい、憂慮すべき事態だろう。