アーカイブ

カテゴリ

アニメ

漫画

映画

小説

その他

 

『博奕打ち 総長賭博』

『博奕打ち 総長賭博』

監督:山下耕作

脚本:笠原和夫

上映:1968/1/14

出演:鶴田浩二、藤純子、若山富三郎他

 本来なら言葉を重ねる必要もないのだろう。感動した。

 

 どの要素をとっても、極限まで磨き上げられた惚れ惚れするような名作である。こんな映画があったのか、そう膝を打たずにはいられなかった。

 

 三島由紀夫が絶賛したことでも知られる本作は、東映が制作した「博奕打ち」シリーズの四作目に位置する。山下耕作がメガホンをとり、笠原和夫が脚本を担当している。他のシリーズ作を観ていないので、あまりはっきりしたことは言えないが、この作品に関して博奕はなんの関係もない。ただ博徒たちの仁義と友情としがらみの壮絶なぶつかりが、どこまでも丁寧に描かれる。

 

 なにがこの作品を名作たらしめているかといえば、脚本のすばらしさ、及びプロットの確かさだろう。メインストーリーだけ取ってみれば、組長不在の組で陰謀が進み、主人公たちがその犠牲となっていき、最後に悪の親玉を成敗する、という至極単純なものだ。しかしシンプルなストーリーほどその単純さゆえのパワーと安定さを持っているものだ。そして、このメインストーリーに他の要素が加わっていく。主人公中井と兄弟分松田の友情、松田とその妻弘江の愛情、松田と子分の音吉の主従関係、音吉の恋、ヤクザのしがらみ……そのなんと多様であることか。それらの一つ一つも決して奇抜なものではない。むしろ抜き出してみれば、ありきたりとも映るものである。しかしそれら全てが徹底的に磨き上げられ、組み立てられ、幾層もの物語を形成している。時間を追ううちに、積み重なる物語の重みに愕然とさせられる。メインのストーリーを難なく追っているつもりでいる視聴者は、右から左から押し寄せるサブストーリーの畳みかけに襲われることだろう。

 

 本作はギリシア悲劇を感じさせる構成と言われる。無学な自分としては、なんとなくそうかぐらいにしか思えないのだが、個人的にはトマス・マロリーの『アーサー王の死』に似た構成を感じた。この作品では後半はアーサー王は大した働きをせず、王という機能としてのみ作用している。そして物語は華々しい騎士ランスロットと王国に忠誠を尽くすガウェインが中心となる。一方『総長賭博』では組長は病によって、重体となっている。そして、映画の中心となるのは、血気盛んで義に厚い若山富三郎演じる松田と穏健で組を第一に考える鶴田浩二演じる中井の二人に移る。まとめ役であるはずの「王」が共に機能不全を起こしており、その部下が対照的に描かれる。そして組織を思うがゆえにしばしばガウェイン、中井側が冷酷に映るところなど、非常に似ていると思う。それがどのような地盤によるのかはわからないが、ここからも『総長賭博』が安定したしっかりとしたプロットを持っていることが見受けられる。

 

 これはよく言われることだが、この作品には「悪者」がいない。誰もが自分の正しいことを貫いて、それ故にどんどんと袋小路に追い込まれていく。中井はしがらみを守りながらも必死になって松田を救おうとする。松田は中井に仁義を感じながらも自分の思う任侠道を貫く。音吉は中井やその妻つや子に恩義を強く感じながら、主人に殉じようとする。逃げ場のない悲劇なのだ。全てが全て裏目に出る。重なり合う悲惨な展開も、先ほど述べたように一つ一つは単純なものだ。しかしそれが幾重にも積み重なることによって、荘厳な悲劇が完成する。個々の要素を極限まで磨き上げ、洗練させたからこそできる芸当だろう。

 

 また俳優の演技も凄まじい。中心となる鶴田浩二、若山富三郎(勝新太郎のお兄さんだ)も圧巻だが、脇役がまたすごい。松田を支える悲劇の妻弘江を演じる藤純子(まだ富司じゃないときだ)は、その当時の年齢を考えると想像もつかない名演だ。奥さんらしい艶っぽさ、運命に翻弄される悲劇的性格、全てを演じ切っている。そして悪役仙波を演じる金子信夫もまた素晴らしい。ずる賢い悪党らしさを出しながら、随所で存在感を示し、画面を引き締めている。こういう脇役の盤石さがこの映画を支えている。

 

 三島由紀夫は「これはなんの誇張もなしに『名画』だと思った」と語っている。そう、この作品は名画なのだ。映画とは刻一刻と場面が変化するものだが、その一場面一場面を切り取ってみたくなるほど、画面が美しい。個人的に涙が出そうになったのは、つや子の墓から帰る中井を音吉が引き止めるシーンだ。泣き崩れる音吉に、静かに傘を置く中井。美しさというものはこれほど静かに押し寄せるのかと思わされた。どうやら歌舞伎の影響にあるらしいが、無学な自分にははっきりしたことはわからない。ただ、動画であることを超越した静止画としての美しさがこの映画にはある。

 

 『総長賭博』には勧善懲悪劇にありがちな爽快感はない。悪人が倒されてスカッとすることもない。中井がこの作品における悪役仙波を成敗するシーンも至極あっさりと描かれている。あくまでこの作品において、そういうヤクザの仁義の称揚といったテーマは二の次であり、人間同士の葛藤に重きが置かれているのだ。事実、公開当初は「芸術みたいなものを作るな」と叱責されたという逸話が残っている。このあたりは『総長賭博』の予告編を観てみると面白い。まず驚くのは本編の終盤一瞬だけ映る賭博シーンがまるで重要なシーンであるかのように映されていて、まるで本作が博奕を中心にした映画であるように映る。また予告の最後の方には本編にはない中井の仙波が放った刺客を相手の大立ち回りがある。要するにこれは撮ったもののカットされたのだろう。まさしく英断というべきか。ラストで華々しい立ち回りがあったのでは『総長賭博』の雰囲気は決して出なかっただろう。当時の状況を考えるに、芸術映画っぽいのを作ると、観客に観てもらえる云々以前に、スポンサーやらに制作を認めてもらえなかったのかもしれない。なんとしても自分の作りたい映画を撮るために予告編では精一杯王道のストーリーを見せて、制作するための方便としたのだろうか。その時期ならではの苦労や苦闘を感じさせる。予告編は作品のラストの映像を平気で使っているため、ここではリンク等も載せないが、是非本編を観終わった後に、観てみてほしい。

 

 『博奕打ち 総長賭博』ラストの中井の有名な台詞、「任侠道か……そんなもん俺にはねえ……俺は、ただの、ケチな人殺しなんだ……」は従来のヤクザ映画へのアンチテーゼとも言われる。本作の悪役は組幹部の仙波だが、彼にしても悪辣な手段に出ているとはいえ、利益を考えて行動しており、それを成敗するのは仁義に反すると主張できる。仁義をいいように使っている仙波にしても言い分はあるのだ。本作が真の意味で「悪役」がいないことがわかるだろう。その仙波を成敗する以上、中井は英雄ではなく、人殺しに堕するしかない。最早華々しい任侠道などどこにもなく、あるのは血なまぐさい殺しのみである。最後に代紋にドスを投げ、背中を向ける中井の姿はそれを何よりも雄弁に語る。

 

 この作品の脚本を担当した笠原和夫は、この後深作欣二監督と組み、『仁義なき戦い』を制作していく。仁義のあった華々しいヤクザものから仁義のない闘争を描くヤクザものへ。その間を繋ぐ『博奕打ち 総長賭博』は、ヤクザ映画という傍流を芸術の域に押し上げた、今なお色褪せぬ「名画」なのである。