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『グラスリップ』最終話

 「終わり良ければ総て良し」なんて言葉がありますが、これは本当にその通りで、TVアニメは前半や中盤が多少へぼくても最後追い上げてくればいいアニメとして記憶に残ります。逆にいえば最初どんなに頑張っていても最後がイマイチなだけで叩かれまくったりと理不尽な部分もあるわけですが、要するに発射のインパクトよりも着地のスムーズさが大事というわけです。勿論1話で観続けてもらえるなにかは示さなきゃならないですが。そう考えた時、『グラスリップ』というアニメは奇跡のような着地をしたアニメです。

 

 最終話の唯一にして最大の課題は広げたファンタジーの要素をいかにして畳むかということでした。『グラスリップ』初期はP.A.WORKSらしい日常描写を中心にした人間模様がテーマでしたが、中盤から「未来の欠片」に話がシフトしていき、12話をピークとするファンタジー要素が強めの話が増えていきました。前半と後半のストーリーをいかにつなげるか、というのが最終話の焦点でした。

 

 結論から言えば『グラスリップ』は風呂敷を畳むことに大成功したと思います。最終話は今まで散りばめたファンタジー色を全て、「青春の1ページ」という段階にまで落とし込んでいます。これによって前半で描かれたストーリーとの整合性もとれ、かつP.A.WORKS十八番の作品展開ともなり、なぜこの作品をP.Aが作ったのかという疑問にも間接的に答えています。

 

 この13話のマジックを可能たらしめたのは透子の母親の存在です。彼女はもう見事なクローザーで、九回裏で三奪三振とったとしか言いようがありません。Aパート終盤で、母親は透子に自分にもかつて「未来の欠片」が見えたという事実を語ります。この時点で、母親は透子が今現在体験している現象を既に通過した人間であることから、透子よりも一つ上の次元にいるキャラクターです。つまりそのメタ性から彼女の「未来の欠片」についての発言は、駆と異なり信頼に足り得るということです。これによって解決し得ないかに見えた「未来の欠片」についての議論が、第三軸からの介入で一定の解決を見たことになります。この辺り「後期クイーン問題」の解決と似てるような気もしますが、その辺は泥沼なので保留。またかつて青春時代に透子と同じ経験をしたという母親の発言は、今まで描かれてきた透子の体験に青春の一コマという性格を与えることになり、広がったファンタジー要素を急速に畳むことに大きな役割を果たしているのです。

 

 「青春の1ページ」という言い方は非常に曖昧なものですが、これは『グラスリップ』においては具体的な時間で表すこともできます。要するに「ひと夏の成長」です。透子と駆以外のキャラクターの最終話での描写は基本的にこれに沿って描かれており、やなぎの「ランニングの成果かな」とか祐の早起きとか、その行為が直接的な成長ではありませんが、それが指示しているものが、それぞれが夏休みを経てそれぞれがどうなったかを表すという描写になっていますね。『グラスリップ』は最終回にして見事に非日常的な風呂敷を畳んで、日常的な成長譚に落とし込んだのです。

 

 

 さてここからは最終話の駆についての考察です。最後に駆はどうなったのか、これは意見の分かれるところであり、実のところどれにも決め手がないのですが、とりあえず考えてみたいと思います。最終話の駆のその後には大きく3パターンの考え方があります。つまり「駆は幻だった」、「海外に旅立った」、「透子の高校に転校してきた」の3つです。まず一つ目から行きましょう。

 

 「駆は幻だった」という考えは正直かなり極論だと思いますが、微妙にそう見えなくもないというのがつらいところです。恐らく根拠としては、唐突に挟まる透子と雪哉の会話とそこで語られるジョナサンについて、最後に透子が聴いた「未来の欠片」、そしてなにより終盤で駆がまったく描かれていないという事実。この辺りからなんとなくそう考えられそうではあります。先ほどのひと夏の成長というテーマでいくと、駆が現象であったという発想はわりとしっくりくるんですよね。しかし、最後の部分では駆の父親が映っています。12話のもう一つの世界では、透子と駆だけ入れ替わるのではなく二人の家族ごと入れ替わっていることを考えると、駆の父親は存在していて駆だけ存在しないというのは無理がありますよね。この辺りから一つの説としてはともかく、幻説は現実的ではない気がします。

 

 次の駆が海外に行ったとする説ですが、こちらはそれなりに根拠があります。透子と雪哉との会話での「ジョナサンは強いて言えば冒険者」という発言や、駆の家にテントがなかったこと、「未来の欠片」を未来であると考えると透子が最後の「未来の欠片」を聞いた時その場に駆はいないはずだという考察、そのあたりからこの説は導けます。この考えは妥当性の面から考えればかなりいい線いっているものであり、ひと夏の成長という観点から考えても、駆がもういないことから駆が現象であるのと同じ効果が得られ、整合性のある説であると言えるでしょう。しかし、『グラスリップ』が今まで描いてきたものを考えると、この説を取ると首尾一貫していないということになるのです。そこで次の説に移ります。

 

 最後の考えは「駆が透子の高校に転校してくる」というものです。僕自身はこれを支持しています。これは駆海外説と対をなすものなので、海外説の根拠から考えていこうと思います。まず「沖倉駆=ジョナサン、ジョナサン=冒険者、沖倉駆=冒険者」という三段論法ですが、この考えのまずいところは海外に行くということを肯定的に捉えているところです。『グラスリップ』では、駆は親の都合で各地を転々とし、そのために「唐突な当たり前の孤独」を体験したとされてきました。駆にとって一所に留まらないことはマイナスのことだったのです。しかし冒険者という言葉には明らかにプラスのニュアンスがこめられています。駆の中で新天地に向かうことを肯定的に取られる描写があればよいですが、そんなものがあったでしょうか。それがない以上冒険者という言葉から海外に行くという考えは受け入れにくいものです。

 

 次に駆の家にテントがないというものですが、これは素直に家の中に住むようになったのではないでしょうか。駆がテント住まいなのは「唐突な当たり前の孤独」に端を発するものだったと思うので、透子という存在によって居場所を見つけた彼がテント住まいをする必要がなくなったというだけなのではないかと思うのです。

 

 そして最後の「未来の欠片」についてですが、上の二つの考えはどちらも「未来の欠片」を未来のこととして捉えていますが、「未来の欠片」は未来視ではないという結論には達していたはずです。最終話では「視たいと思ったものが視えた」という考えが透子と駆の会話の中で出てきますが、今までの「未来の欠片」の内容を考えるとそれは嘘くさいでしょう。である以上透子の母親の発言を考慮しつつも、僕は12話の時に考えた「自身の環境の変化」に応じて発現するという発想が適応できるんじゃないかなと思います。つまり透子の環境の劇的な変化=駆の転校です。ひと夏の成長を経て、現在と未来が同期して、現実と「未来の欠片」が重なった、というのが最後の描写なんじゃないかと僕は考えています。

 

 とはいえ、この考えも完全ではなく、展望台で透子が駆が落下する「未来の欠片」を視たことがあまり説明できません。発現のトリガー自体は12話の記事で書いたのですが、これがなにを示していたのかは今もって不明です。駆がいなくなることのメタファーとも取れるのですがあくまで推測の域を出ません。

 

 非常に玉虫色な解決とも言えますが、公式側にどうとでも取れるラストにしようという意図があったのかもしれません。それもまたよし、といったところです。1話の記事でも書きましたが、P.A.WORKSのアニメは最後尻すぼみな作品が多いです。しかし『グラスリップ』は中盤まではともかく、色々と風呂敷を広げながら、上手く落とし込んで、こちらに考える余韻まで与えてくれました。P.Aらしく、それでいてP.Aらしからぬ作品である『グラスリップ』はやっぱりP.A.WORKSらしい熱狂を最後に僕に与えてくれたみたいです。

 

 

 

「だから私は、真実の存在とは言えない。心と現実の間をふわふわ漂っているだけだから――」

――――――上遠野浩平(ブギーポップ・ウィズイン さびまみれのバビロン)

 

 

 

最後に飛ばす作品にホント弱いね。

こればっかりは変えられないみたいだよ。